◆◆◆◆◆
ルーベンス家の玄関前に、一台の馬車が滑らかに停まった。御者が手綱を引くと、木製の扉が開き、中から一人の少女が飛び降りる。
秋の始まりを告げる涼やかな風が彼女の金色の髪をそっと揺らし、木漏れ日が庭の石畳に淡い模様を描いていた。
ヴィオレットの娘、リリアーナである。
彼女は小さな靴で石畳を軽快に駆け抜け、玄関に立つ伯父アルフォンスの元へとまっすぐに走っていく。庭の端では、色づき始めた葉がちらほらと舞い、風に揺れるコスモスが秋の訪れを静かに告げていた。
「伯父様~!」
リリアーナの澄んだ声が庭に響く。アルフォンスはその声に振り向き、柔らかな笑みを浮かべた。
「リリアーナ、よく来たね」
その言葉に応えるように、リリアーナは両手を大きく広げて叫んだ。
「抱っこ! 抱っこ!」
アルフォンスは声を上げて笑い、軽やかに彼女を抱き上げる。その足元で、小さな枯葉が一枚、風に乗ってひらりと舞い上がった。
「もちろんだよ、リリアーナ姫」
「ふふっ、姫じゃないもん」
リリアーナは照れくさそうに笑いながら、伯父の首に小さな手を回した。その仕草はあまりにも自然で、子どもの純粋さと愛らしさに満ちていた。
「随分と大きくなったな。もっと頻繁に来てもらわないと、成長を見逃してしまいそうだ」
後ろから馬車を降りてきたヴィオレットは、二人のやり取りを見守りながら苦笑した。
「兄上、二週間前にも来たばかりですよ?」
アルフォンスは肩をすくめ、茶目っ気たっぷりに返す。
「それでも足りないさ。遠くないのだから、一週間ごとでも、いや、三日ごとにでも来てほしいくらいだ」
その冗談にヴィオレットは小さく笑ったが、リリアーナは真剣な顔で声を張り上げた。
「伯父様! 母上とばっかり話さないで。リリアーナの話を聞いて!」
「もちろん、ちゃんと聞いているよ。どうしたのかな?」
「リリアーナね、字をいっぱい書けるようになったよ!」
その無邪気な報告に、アルフォンスの目が優しく細められた。
「それは素晴らしいね。今度、私に手紙を書いてくれないかい?」
リリアーナは嬉しそうに頷く。
「いいよ! いっぱい書くね!」
それを見ていたヴィオレットが、娘の顔を覗き込みながら微笑む。
「私には手紙を書いてくれないの、リリアーナ?」
リリアーナは一瞬きょとんとしたが、すぐににっこり笑って答えた。
「母上にも書いてあげる!」
「それは楽しみね」
ヴィオレットは微笑みながら言い、屋敷の中へと足を向けた。
――
屋敷の玄関ホールでは、執事のクリスが深々と頭を下げて迎えた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま、クリス」
ヴィオレットはわずかに表情を緩める。その微笑みは一瞬だけ続いたが、ホールの大理石に反射する柔らかな光が、彼女の影を淡く浮かび上がらせた。
――かつて夢見た夫婦の幸福。
その理想と現実との落差が、今も胸の奥に澱のように残っている。
アシュフォード家に嫁ぎ、信じた相手に裏切られた記憶は、過去になったはずなのに、ふとした拍子に疼き出す。
「はぁ…」
知らず、ため息が漏れた。
そのとき、小さな手がヴィオレットの頬に触れた。
「母上、つかれてる?」
「少しだけね。馬車の揺れがちょっと堪えたのかもしれないわ」
ヴィオレットは娘の頬にそっと触れ、柔らかな笑みを浮かべた。
「部屋で休んできてもいいかしら、リリアーナ?」
「いいよ~。リリアーナは伯父様にお手紙書くの! あとね、おやつも食べたい!」
アルフォンスはくすりと笑いながら応じる。
「リリアーナのために料理人が腕を振るっているよ。厨房に行ってみるか?」
「行く!」
リリアーナの声が弾む。アルフォンスは彼女を再び抱き上げ、そのまま厨房へと向かった。ヴィオレットはゆっくりと階段を上がりながら、背後から聞こえてくる二人の笑い声に耳を傾けた。
――この子がいるから、私は歩いていける。
そう思いながらも、胸の奥に沈む影は、まだ完全には消えてはいなかった。
窓の外では、色づき始めた葉が風に揺れ、陽光を受けて柔らかな輝きを放っていた。
その美しい光景に一瞬、心が和らぐ。
けれど――その光の下でも、過去の痛みはなお、彼女の心に影を落としていた。
◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆春の終わり――初夏の訪れを告げる風が、優しく庭園を吹き抜ける。ルーベンス家の庭園は、まるでこの日を祝福するかのように、咲き誇るバラの香りに満ちていた。陽射しは柔らかさを残しながらも、次第に力強さを増し、瑞々しい緑の葉を透かして輝いている。白いアーチには純白の花が飾られ、絡みつくツタが初夏の訪れを告げるように揺れていた。その中央に、純白のドレスを纏ったヴィオレットが静かに立っていた。陽光を受けて輝く金の髪は風にそよぎ、琥珀色の瞳には幸福の光が宿っている。彼女の隣には、漆黒の礼服を纏ったアルフォンス・ルーベンス。彼の端正な顔立ちは普段と変わらず冷静だったが、ヴィオレットを見つめる眼差しには、確かに深い情が滲んでいた。「……綺麗だ」アルフォンスは低く囁く。ヴィオレットは驚いたように瞬きをし、次の瞬間、頬にかすかな紅を浮かべた。「……ありがとう」「本当に綺麗だ」アルフォンスはもう一度言いながら、そっと手を差し出した。ヴィオレットはその手を取る。温かな感触が指先から伝わり、心が落ち着くのを感じた。「貴方がそう言ってくれるなら、きっとそうなのね」ヴィオレットが微笑むと、アルフォンスはわずかに目を細め、唇をゆるめる。「教会は、私たちの婚姻を正式には認めなかったが……」彼は小さく息をつき、ヴィオレットの手を強く握った。「私は君を妻と呼ぶ。それが正式なものかどうかなど、関係ない」「……ええ、私は貴方の妻よ、アルフォンス」その言葉を交わした瞬間、ヴィオレットの胸の奥に、深い安堵と喜びが広がった。ようやく、この日を迎えられたのだ――「おやおや、お二人さん、ここでじっと見つめ合っていると、式が進まないよ?」唐突に割って入ったのは、レオンハルトだった。「まさかとは思ってたけど、本っっっ当に結婚するとはな! いやぁ、さすがは俺の兄貴、やることが大胆だよなぁ。それにしても、ヴィオレットが俺の義姉か……ヴィオレット姉さん、お幸せに~。これからもよろしく~」アルフォンスは呆れた顔で肩を竦め、ヴィオレットは笑いながら応じた。「私たちを手助けしてくれてありがとう。貴方の助けがなければ、この時を迎えられなかったと思うの。感謝するわ、レオンハルト」レオンハルトは一瞬だけ真面目な顔になり、ヴィオレットを見つめて静かに言った。「ヴィオレット
◆◆◆◆◆春の空は、どこまでも淡く霞んでいた。遠くで鳥の声が響いているのに、それさえも届かないような、深い静寂があった。王都の外れ、小高い丘の上にある墓地に、白い棺が静かに置かれていた。かつては伯爵家の嫡男であった男――セドリック・アシュフォードの眠る場所だ。名門の末路にしては、あまりにも質素な葬儀だった。参列者はごくわずか。教会から派遣された神父が、淡々と祈りの言葉を捧げていたが、誰の胸にも届いているようには思えなかった。棺の前に、ヴィオレット・アシュフォードが立っていた。黒いヴェールの下、彼女の表情は読めない。けれど、風に揺れるドレスの裾や、きゅっと結ばれた指先が、心の揺れを物語っていた。リリアーナがそっと手を握る。母の隣で、彼女も黒い喪服に身を包んでいた。まだ小さな指が、しっかりとヴィオレットの手を掴んでいる。「……これが、お父様?」ぽつりと、リリアーナが呟いた。ヴィオレットは頷こうとして、できなかった。ルイの実父であり、リリアーナにとっても「父」と呼ばれるべき存在。けれど、彼女の記憶の中にセドリックの優しい顔はほとんど残っていない。抱き上げられたことも、名前を呼ばれたことも――少ない。それでも。「……そう。あなたのお父様よ」ヴィオレットは静かに言った。リリアーナはうつむき、棺に一輪の白い花を添えた。花は、彼女が自ら庭で摘んできたものだった。その隣には、すでに一輪の青い花が置かれていた。誰が置いたものかは分からない。けれど、冷たく硬い木の蓋の上で、それだけが柔らかな命のように、風に揺れていた。その青い花が、かつてセドリックが愛した誰かを象徴しているのか、それとも――最期の悔いを誰かがそっと受け取った証なのか、誰にもわからない。リリアーナは、もう一度棺を見つめた。「……さよなら」その声は小さく、けれどはっきりと空に響いた。ヴィオレットの喉が詰まった。それは悲しみなのか、憐れみなのか――それとも、癒えぬ傷の痛みなのか。自分でもうまく分からなかった。セドリックと出会わなければ、きっとこんな涙も、こんな苦しみもなかった。けれど――出会わなければ、リリアーナもルイも生まれてこなかった。「……ありがとう」それが、ヴィオレットにできる精一杯の言葉だった。傍らで、アルフォンス・ルーベンスが無言で
◆◆◆◆◆冬の冷たい風が、牢獄の隙間から入り込んでいた。石造りの壁は冷え切り、湿った空気が重く漂う。床にはうっすらと霜が張り、どこからともなく滴る水音が静寂の中に響いていた。狭い牢の片隅に、セドリック・アシュフォードは身を縮めるように座り込んでいた。彼の顔はやつれ、頬はこけ、かつての端正な面影は薄れつつあった。血の気を失った唇はひび割れ、長く伸びた髪がぼさぼさと乱れている。肩を覆う衣服はすでに薄汚れ、寒さを凌ぐには到底足りなかった。やせ細った指先が震えながら膝の上をさまよう。ふと目を閉じると、暗闇の奥から誰かの声が聞こえた気がした。ガチャリ突然、鉄格子の扉が軋む音を立てて開いた。セドリックはゆっくりと顔を上げる。扉の向こうには、無表情な番兵が立っていた。「最後の晩餐だ」そう言って、番兵は紙箱を牢内に押し込んだ。それとともに、一枚の羊皮紙と封筒が差し入れられる。セドリックは無言のまま、それらを見下ろした。番兵が扉を閉める。ガシャン鈍い音が響き、再び冷たい静寂が牢を満たした。セドリックは紙箱を横に置き、羊皮紙を手に取る。遺言を書く時間だ。牢の片隅には、簡素な木製の台が備え付けられていた。小さな傷が無数に刻まれた古びた机。セドリックはそこに羊皮紙を広げ、震える指で羽ペンを握った。インク壺を慎重に開き、羊皮紙に向ける。――私は、セドリック・アシュフォードは、アシュフォード家の全ての財産と家督を、ルイ・アシュフォードに継承することをここに記す。また、王都の邸を売却し、その代金をリリアーナ・アシュフォードに相続させるものとする。ヴィオレット・アシュフォードへの持参金もすべて返還し、以後、一切の権利を放棄する。それらの決定において、誰も異議を唱えることのないよう、ここに記す。――セドリック・アシュフォード書き終えた手が小さく痙攣する。疲れた目で遺言状を見直し、静かに「ルイ」と書かれた文字を指でなぞる。ルイ……本当に、お前は俺の子なのか?胸の奥で不安が膨らむ。彼を嫡子と定めたものの、最後の瞬間まで疑念は消えなかった。それでも、もうどうでもいい。ゆっくりと封筒に遺言状を収め、封をする。これで、全てが終わった。セドリックは、最後の晩餐として届けられた紙箱を手に取る。蓋を開けると、中には幾つものクッキーが並んでい
◆◆◆◆◆「アルフォンス!」ヴィオレットは我を忘れて駆け寄った。枕元に手をつき、彼の顔を覗き込む。「兄上……!」琥珀色の瞳には涙が溢れ、震える手がアルフォンスの頬に触れた。「目が覚めたのね……本当に……」その言葉に、アルフォンスはゆっくりとまぶたを開き、ヴィオレットを見つめる。その瞳には、確かに意識の光が戻っていた。「……君が無事でよかった」微笑みながら、そう囁く。その声を聞いた瞬間、ヴィオレットの涙がとめどなく流れた。「アルフォンス兄上……!」彼の名を呼びながら、ヴィオレットはアルフォンスの手を握りしめた。その手はまだ冷たく、か細い力しか感じられなかった。それでも、彼が生きていることに安堵し、ヴィオレットは涙をこぼしながら彼の手を頬に押し当てた。「兄上がいなくなるなんて、考えたくなかった……!」涙が溢れ、嗚咽が混じる。「兄上がいなくなったら、私はどうしたらいいの……?」ヴィオレットの肩が震える。アルフォンスは微かに笑みを浮かべ、穏やかにまぶたを伏せた。「私は……どこにも行かないよ」その囁きに、ヴィオレットの涙が一層こぼれ落ちた。「本当に……?」震える声で尋ねると、アルフォンスはゆっくりと頷いた。「……約束する」その言葉に、ヴィオレットの心が救われた気がした。だが、彼がどれほど自分の心を支えていたかを思うと、言葉にならない思いが込み上げる。「アルフォンス……」ヴィオレットは彼の胸に顔を埋めた。「私には貴方が必要なの……」かすれる声で告げる。「貴方がいない世界なんて、考えたくない……貴方がいないと、私は……」言葉が詰まる。「アルフォンス、貴方が私を支えてくれた。貴方がいたから、私は戦えた……だから、お願い、もうどこにも行かないで……」涙で濡れた声で懇願するように言った。アルフォンスは微笑み、そっと彼女の頬を撫でた。「……ありがとう」その優しい言葉に、ヴィオレットは胸が締め付けられる。「大好きよ、アルフォンス……」ヴィオレットは顔を上げ、彼の瞳をじっと見つめた。アルフォンスはそんな彼女を静かに見返す。何も言わずに、ヴィオレットはそっと彼の顔に近づき、躊躇うことなく唇を重ねた。触れるだけのものではない。柔らかく、確かに、彼の唇の温もりを確かめるように。アルフォンスの唇はまだ少し冷たか
◆◆◆◆◆玉座の間での騒動は、人々に衝撃を与えた。噂は瞬く間に貴族社会を駆け巡り、ヴィオレットが無実であったこと、そしてアウグストこそがすべての黒幕だったことが世間に知れ渡る。その結果、彼女に向けられていた疑惑は完全に晴れた。だが、ヴィオレットにとって本当に重要なのは、それではなかった。――アルフォンスが、意識を取り戻さないこと。それが、何よりも恐ろしかった。邸へと運ばれた彼は、いまだ目を覚まさず、白い顔で静かに横たわっていた。薬師たちは解毒薬を施し、何度も診察に訪れた。「毒の量は致命的ではありません。……ですが、意識が戻るかどうかは、ご本人の体力と意思次第です」そう告げられたとき、ヴィオレットの心は締め付けられるように痛んだ。――意識が戻らないかもしれない。その可能性が、彼女を何よりも苦しめた。◇◇◇ヴィオレットは夜も眠らず、アルフォンスの看病を続けた。寝台の傍らに座り、彼の頬にそっと触れる。「私を置いていかないで……私を一人にしないで、兄上……アルフォンス兄上……」何度呼びかけても、何の反応もない。琥珀色の瞳を開いてくれることも、微笑んでくれることもない。ヴィオレットの瞳から静かに涙がこぼれ落ちる。その姿を、レオンハルトは黙って見守っていた。「少しは休め、ヴィオレット」そう声をかけても、彼女は首を振るだけだった。「私は大丈夫です。兄上が目を覚ますまで、傍を離れるわけにはいきません」蒼白な顔、やつれた頬、焦点の合わない目――彼女がどれほどアルフォンスを必要としているか、レオンハルトは痛いほど理解していた。「……帰ってこい、アルフォンス」レオンハルトもまた、そう語りかけた。だが、アルフォンスは応えない。---アルフォンスが倒れて三日目の朝。窓の外には薄い朝焼けが広がり、静かな寝室にかすかな光が差し込んでいた。ヴィオレットは疲労に耐えきれず、ソファに身を沈めていた。意識が霞む中、ふと、幼い声が聞こえる。「伯父様……」かすかな囁きが、静寂を破った。ヴィオレットの意識がゆっくりと浮上する。「母上も、私も……伯父様のそばにいる時が、一番幸せなの!」ヴィオレットは目を開けた。寝台の傍らに、リリアーナが立っていた。彼女の小さな手が、アルフォンスの手をぎゅっと握っている。「だから、目覚めないと駄目!
◆◆◆◆◆玉座の間には、重く張り詰めた沈黙が広がっていた。王の命を受けながらも、アウグストは答えようとしなかった。その代わりに、彼はゆっくりと天を仰ぐ。まるで全ての緊張を解き放つように、肩の力を抜き、深く息を吐いた。やがて、静かに視線を戻し、ヴィオレットを見つめる。その唇には、不気味な笑みが浮かんでいた。「……お前の母が全てを招いたのだ」その言葉に、ヴィオレットの眉がわずかに動く。「お前の母は罪深い」静かに呟きながら、一歩、また一歩とヴィオレットへと近づくアウグスト。異端審問官や貴族たちは、彼の行動を見守るばかりで、誰も動こうとはしなかった。しかし、ヴィオレットはその場を動かず、琥珀色の瞳をまっすぐにアウグストに向けた。「……何が罪深いというのですか?」「……貴様に理解できるものか」アウグストの声が低く響く。「イザベラは、私のものだった」その言葉と同時に、アウグストはゆっくりと手を動かした。彼は指輪の細工を外し、親指で軽く押し込む。カチリ、と小さな機械音が響く。その瞬間、指輪の内側に仕込まれていた毒針が飛び出し、鋭い光を放った。「っ……!」ヴィオレットは後退りが、アウグストの動きは速かった。彼の指先が、ヴィオレットの胸元へと伸びる。「ヴィオレット!」鋭い声とともに、飛び込んだのはアルフォンスだった。ヴィオレットの前に立ちはだかり、アウグストの腕を強く掴む。しかし、アウグストの手が動いた瞬間、毒針がアルフォンスの頬を掠めた。「っ……!」鋭い痛みとともに、赤い筋が彼の肌を裂く。「兄上!」ヴィオレットの叫びが響いた。「下がっていろ、ヴィオレット」アルフォンスはアウグストの腕をひねり、ヴィオレットから距離を取ろうとする。アウグストは抵抗を強めて、二人がもみ合いになる。その瞬間――鋭い蹴りがアウグストの脇腹に入った。「ぐはっ……!」アウグストは床へと吹き飛ばされる。蹴りを放ったのは、レオンハルトだった。「捕らえろ!」レオンハルトの声に応じて、王太子直属の兵たちが即座に動き、アウグストを強引に床に押さえつける。「枢機卿、観念しろ!」王太子アドリアンが冷然と告げる。だが――「……まだだ」アウグストは薄く笑った。動きを止めた兵士たちの隙をつき、素早く自由になった片手を動かす。指輪をはめたま